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大教室の落書きから(伯)

このあいだ、大学時代のメモを見返してたらおもしろいもんを見つけた。
大教室のつくえの落書きを書き写しておいたメモだった。

「ほんとこの学校つまんない。
まだ受験勉強してた方がよかった。
西村、まゆくんあいたいよー!!
毎日学校つかれた。
あいがないね、このがっこう。
昔みたいに7:35の電車で京咲さんをストーカーしたいよー!!
ナンパもする年じゃないし、そろそろ世もおわりですの。」
「↑毎日の生活は自分から楽しくするもの。
大学4年間いろんなことができる。」

「一度死んでしまえば、もうそれ以上、失うものはない。それが死の優れた点だ。」
「一度そってしまえば、さらに濃くなる。それが良くない点だ。」
「まったくだ」

「あわれわれ死なんと欲す
あわれわれ生きむと欲す
あわれわれ亡びたるすべての過去に
涙湧く
彼方の方より
風の吹く

中原中也「心象」より」

「不完全な人生から多くのムダを取りのぞいたなら
それは人生ですらなくなる。」

「なぜ
白目をむくの?
大川先生」

以上115教室のある机上の
落書きより。


いろんな人が一つのつくえに入れ替わり立ち替わり座るから、コミュニケーション空間が自然と立ち上がっちゃうときがあって、それがおもしろいと思って書き写しておいた落書きだった。
忘れた頃に読み返すとおもしろいね。
いろんなことをインスパイアされる落書きだけど、今日は環境について話してみたい。

大学の頃によく思っていたのは、この大学はほんとにおもしろくないな、ということだった。「あいがないね、」という落書きと似たような想いを持っていた。
その要因の一つは、学生が自由に使える場所がなかったことだった。キャンパス自体は広いけど、そこで継続的な活動をしようとして、部室のような空間をつくろうとすると、必ず事務の許可が必要だった。それがめんどうだった。
そのせいで、キャンパス内のサークル数は少なかった。ほかのキャンパスに行けばあふれるほどのサークルがあったから、部活をしたい学生はそっちに流れていった。だから、キャンパス内にはサークル活動の活気がなく、文化的な遊びの部分がなく、勉強以外をする余裕がない空気が漂っていた。それがつくえの落書きにも表れていたってことやね。

自分は加えて、高校の頃にあまりに自由な空間を過ごしていた。
演劇部の部室は校舎から離れた倉庫の中にあった。半分が倉庫で半分が演劇部の部室だった。ほかの部活が教室を借りたり、着替え用のような小さな部室を持っているだけだったのに対して、演劇部は舞台用装置を保管する関係で、割と広い空間の部室を与えられていた。
そこは校舎外の建物なので、校舎管理からも外れて、夜遅くまでダベっていることができた。練習が終わってから、演技の課題を話したり、先輩の話をしたり、昔の部誌を読み返したり、悩みを打ち明けたり、トランプで白熱したりしてた。
学校という管理から外れた異空間の中で、大半の時間を過ごせたことは、時間がたてばたつほど、ありがたかった。

そういう体験をしていたため、大学の空間に満足できなかった。
大学おもしろくねーな。
そういう気持ちもあって、あんまり大学には行かなくなったときがあった。

でも、今ならわかるんだけど、自分のいまいる場所に満足できないなら、その環境を変えればいいよね。
その環境から離れて別の環境に行ってもいいし、その環境自体に変化を加えてもいい。
大学時代の自分には、その視点がまったく欠けていた。見えていなかった。

与えられたものだけが自分の使えるものじゃない。
ないものに気づいたら自分でつくっちゃえばいい。
読みたい本がないなら、自分で書けばいい。
見たい絵がないなら、自分で描けばいい。
それは環境でも一緒だ。
なにか満足できない部分があるなら、自分で作り変えていけばいい。
働きかけることができる部分は少ないかもしれないけど、少しずつ少しずつ変えようと意識して行動すればいい。
何かがトリガーになって、ひょんなことから変わるきっかけが生まれるときがある。
そのきっかけが見えるのは、こうなってたらいいのにな、と思い描いてる人にしか見えない。
だから、少しずつ少しずつ、できることから始めたらいい。

環境はそれを意識することにおいて存在するが、意識されるものを必要とするという点で、それは単なる空想とはちがう。環境を意識するとは、想像力によって明示的なものを越えるということである。(『環境とは何か』落合洋文、ナカニシヤ出版、1996.3.20)


今朝たまたま開いたページにあった言葉は、このことを言ってるのかもな。
by FutureGlance | 2011-07-16 08:26 | 生きる技術